UEFAチャンピオンズリーグ(CL)の準々決勝でこんなシーンがありました。
リードしているフォワードの選手がゴール前に抜け出し、ドリブルでペナルティエリア左側に侵入しました。
相手チームのディフェンダーはシュートを防ぐために、シュートコースを足でブロックします。 出した右足にフォワードが引っ掛かり倒れたところで笛が鳴りました。
スタジアム全体が一瞬止まり、PK獲得で勝負が決まったかという雰囲気が漂いました。
ところが審判はフォワードの選手に駆け寄ると、イエローカードを出しました。
PKをもらうためにファウルの演技をしたことに対し、シュミレーションの反則を取ったのです。
カードを出されたフォワードは、バツが悪そうに顔を下に向けながら自陣へ帰っていきました。
ジュニアサッカーのずる賢さの象徴「マイボー」
ジュニアサッカーを観戦していると、ラインを割ったボールに対して選手が「マイボー!」と手を挙げてアピールする場面をよく見ます。
主審に対して、「マイボールである」「相手が最後に触った」ということを主張するものですが、明らかに自分が触っているにも関わらずマイボールアピールをする選手がいます。
ジュニアサッカーでは主審1人でジャッジをするため、サイドラインやゴールラインの判定が甘くなりがちです。
また、ライン際でボールを蹴り合った場合、選手が影になり最後にどっちが触ったかが分からないことがあります。
それを知っている選手たちは、判定が微妙になりそうなプレーがあると、手を挙げてマイボールをアピールすることで自分に有利な状況をつくろうとします。
この挨拶のように交わされるマイボールアピールは、古くからサッカーのテクニックのひとつとして育成年代で行われてきました。
コーチや指導者が教えていないにも関わらず、そのフェイクは各年代で脈々と受け継がれて来たわけです。
ボールが出た瞬間に「マイボー!」と叫び手を上げる選手は、果たして、目先のスローインだけでなく試合の流れを把握し勝利に繋がるプレーをしているのでしょうか。
もし、流れ作業のようにマイボールアピールをしているのであれば、そのプレーの意味や受ける印象を一緒に考えてあげたほうが良いように思います。
「ずる賢さ」の定義が変わっていく時代
南米の選手が得意とする「ずる賢さ(マリーシア)」は、審判はすべてを見ることができない、時間を巻き戻すことができないという物理的な制限の中で育ってきました。
マラドーナがW杯で見せた「神の手」は、マリーシアを象徴するひとつであり、やるかやられるかというギリギリの勝負の中で起った伝説として称賛さえされています。
しかしながら、そこには騙された方が悪いというスポーツマンシップとは対極の精神が存在しているのも確かです。
近代サッカーは、時代背景やテクノロジーの発達にあわせて、ルール改正が数年ごとに行われています。
ジュニアサッカーにおいても2019/20年の競技規則改正によりルールが変更され、ビルドアップを中心にチームの戦術が大きく変わりました。
その目的や経緯は年度によって異なるものの、スポーツとしてのエンターテインメント性を高め、より選手がリスペクトし合えたり観客が分かりやすくなることでサッカーを普及させたいという意図が読み取れます。
2018年のワールドカップから正式導入されたVARは、導入当初は賛否が分かれましたが、今やその存在を否定する人は少数派となっています。
また、コロナ禍でVARが導入されていない今となっては、誤審が報じられることが増えているようにも見えます。
これは、「ずる賢さ」という言葉で美化していた真実を知ってしまったが故に、よりフェアに判断したいというベクトルが観客側に強くなっているからだと思われます。
すべてを審判に任せるのではなく、観客それぞれが自分の目でジャッジすることもエンターテイメントの一部になっているということです。
そう考えると、これまで賞賛されてきた数々の「ずる賢さ」は、映像という形で後世に渡り汚点となる可能性があります。
明らかに最後に触った選手が行うマイボールアピールは、育成年代のサッカー選手が身に付けるべき技術とは言えなさそうです。
おそらくその選手がプロになる頃には、サッカーを取り巻くテクノロジーはさらに発展し、ルールも時代を反映して改正されていることでしょう。
審判をリスペクトしつつ、本来はマイボールであったことをアピールするジェスチャーや、審判との円滑なコミニケーションこそ育成年代で身に付けるべき技術であるように思います。
このサッカーを取り巻く人々の変化を正しく理解しつつ、決められたルールの中で勝利に繋がる「ずる賢さ」を出せるかどうか。
マリーシアという伝統技術の魅力を知る私たちには、「ずる賢さ」のすべてを否定するのではなく、時代背景を取り入れながら再定義していくことが求められているように思います。